ほかには何も存在しない。~
禅師の臨済について、こんな話を聞いたことがある。
ある日、彼は庵の中に座っていた。そこへ男がひとりやってきた。
男はひどく怒っていた。妻とけんかしたのか、上役とけんかしたのか、ともかく怒っていた。男は怒りにまかせて扉を開け、怒りにまかせて靴を脱ぎ捨て、入ってきた。
・・・・きわめてうやうやしく入ってきた。そして臨済に頭を下げた。臨済は言った、
「まず扉に許しを請うてこい。それから靴にもだ。」男は怪訝な顔をして臨済を見上げた。そこにはほかの人々も座っていた。みな笑い出した。臨済は言った、「黙れ」そして男に向って言った、「もしそれがいやなら、ここを去るんだ。おまえに用はない。」男は言った、「靴や扉に許しを請うなんて、おかしくはありませんか。」臨済は言った、「お前が怒りを表したのはおかしくなくて、これはかしいというのか。何物にも意識はある。さあ出て行け。扉がお前を許すまで、中に入ってはいけない。」
男は不可解に思いながらも、出て行かざるをえなかった。この男は後に僧となり、悟りを開いた。悟りを開いたとき、彼はこの話を人々に語って聞かせた。
「扉の前に立って許しを請うたときには、何ともへんてこで、馬鹿げて思えたものだ。でも臨済がそう言うのだから、きっと何かあるに違いない。私は臨済を信じてい。
『では、ひとつ馬鹿になってやってみよう、彼がそういうのだから、何かあるに違いない。。。。』
それで始めてみた。最初のうちは、扉に対して何を言ってもすべて表面的で、そらぞらしかった。でも少しずつ、私は本気になってきた。臨済は私を待っていた、その前に臨済はこう言った。
『私は見ている。もし扉が許してくれたら入ってきていい。そうでなければ、ずっとそこにいて、自分を許してくださいと扉と靴に頼むんだ』
・・・・少しずつ私は本気になってきた。大勢の人々が見ていることも忘れてしまった。臨済のことも忘れてしまった。そして私の姿勢はだんだん誠実に、本物になってきた。すると扉と靴が、その気分を変えていくように感じられた。
そして私にはわかった━━扉と靴の両方が、すっかり機嫌を直したと━━。すると、臨済はすぐに言った。
『よし、さあこっちへこい。もう許された。』」
この出来事が、男の生涯に変容をもたらした。
男は生まれた初めて、「すべてはまさしく意識の結晶化なのだ」と気づいた。
それが見えなければ、自分が盲目だということだ。
それが聞こえなければ、自分が聾だということだ
周囲には、物質的なものは何もない。すべては凝縮された意識だ。問題は自分のほうにある。つまり、自分が開放的でなく、また鋭敏でないということだ。
この技法いわく
この意識は各々の存在者として存在する。ほかには何も存在しない。
この言葉とともに生活してみる。この言葉に対し鋭敏になり、どこへ行くにも、この心、このハートを携えていく━━「すべては意識であり、ほかには何も存在しない」と。するとやがて、世界はその顔を変える。やがて対象物は消え去り、いたるとこのに人間が現れる。やがて突然、世界全体は光を帯び、そしてあなたは気がつく━━自分が今まで死物の世界に住んでいたのは、自分が鈍感だったせいだと。鈍感でなければ、すべては生きている。生きているのみならず、すべては意識を持っている。なぜなら、すべては奥深くで意識にほかならないからだ。
それを理論として受け取る人もいるだろう。それを理論として信じたら何も起こらない。理論ではなく、自分の生き方、生の様式とするのだ。すべてが意識であるかのようにふるまってみる。
はじめのうちは、「ように」だろう。きっと馬鹿らしく感じるだろう。でもその馬鹿らしさを貫いたら、また、あえて馬鹿になれたら、ほどなく世界はその神秘を開示するだろう。
~空(くう)の哲学~ 和尚 より
私はこの話がとても好きです。
なぜなら、私もよく、物と会話するからです。
そして、彼らが意識を持っていると感じるからです。
私の意識を彼らも写し出してくれるからです。